徒然

映画や演劇をみるひと

彼らもまた、我が子  俳優座劇場プロデュースNo.109

『彼らもまた、我が子』

作・アーサー・ミラー

訳・水谷八也

演出・桐山知也

出演・吉見一豊、山本郁子、竪山隼太、佐藤玲

 

あらすじ

先の記事『みんな我が子』と同じ

 

 

NTL『みんな我が子』を観てその素晴らしさに大興奮していたところ、タイミングよくこの公演があることを知り、観劇を決めた。

 

つい先日観たNTL版と比較しながら観ていたので、純粋に視点をこの作品のみに注げなかったことをまず記しておく。

 

やはり何度観ても戯曲が素晴らしい。しかしこの点においては先日書いたばかりなので記述は控える。

舞台美術は、舞台前面に大きな額縁のようなものが置かれており、観客からみると舞台空間が一枚の絵のように見える。その額縁の中で登場人物たちが会話をし、物語が進んでいく。その額縁の外には、そのシーンに登場していない役者たちが椅子を並べて、額縁の中の出来事を観客と一緒に観ているように座っている。

戯曲に書かれているト書きを読み上げるところから舞台は始まるが、その中で、「舞台は家の前庭。庭の周りには木が生い茂っており、それは外から何かを隠しているようにも見える。」といったようなことが読み上げられる。額縁はそれを表しているのだろうか。だとすると、額縁の中で人物たちが取り繕ったり、逆にさらけ出したりしている部分を、額縁の外にいる役者たちがじっと見つめているのが滑稽に思えて面白い。ただそれがなにかそれ以上の効果があったかといわれると分からない。あってもなくてもあまり変わらない印象になったと思ってしまった。

 

演出は、NTLに比べるととても分かりやすいものになっていた。

役者が体を通常よりも大きく使う演出で、感情の流れが良く分かった。劇的な部分を劇的に演じてくれていたので、こちらとしても、戯曲や役が何を言いたいのかがはっきりわかる。NTL版は、この言い方が正しいか分からないが、もっと普通の人間が舞台上にいた。とくにNTL版だと、父親であるジョーが何を考えているのか、クライマックスを迎えるまであまり分からない。その点今回は最初から最後まで感情の流れや魂胆がよくわかった。表で言っていることと裏で思っていることの差や、本心が透けて見える部分、すべてわかりやすかった。

 

ただ、分かりやすいことが果たして正義かは分からない。

私たちはよく分からないものを目の前にすると、なんだろうなんだろうとある種興味を持ってそれを理解しようとする。最初から分かってしまうと、その興味が生まれない。想像する余地がなくなってしまうのだ。分かりやすいことは悪いことではないが、果して良いことなのかどうかも、一概には言えないと感じた。

 

また、分かりやすいということと、丁寧であるということは別であるのだということに気付いた。

私は、役者同士の繊細で嘘のない緻密な掛け合いを見るのが好きで、その絶妙なやり取りからドラマが発展していかなければ引き込まれないし、信用することができない。今回の演出だと、物語を漏れなく追いかけたい、という人にとっては分かりやすくてとてもいい作りだったのだろうと思うが、やり取りの面を見るととても雑で私には合わなかった。

というのは、役それぞれの主張は分かりやすいが、役者同士の間で行われていることが、なんだか記号化しているように見えたのだ。「Aというセリフを投げかけられて、Bという風に思った。しかしそれをぶつけるわけにはいかないので、Cという台詞を返した。」というように、流れが決まりきっているように見えた。

つまり、演劇は生ものであり、毎回同じことをできるはずがないのに、その場その場で与えたり受け取ったりする細かいやり取りがとても雑で、生である感じがしなかったのだ。

分かりやすいのに、雑。分かりやすいのと丁寧であることは別だと感じたのは、そういう意味からだ。

 

 

と、若干辛口を叩いてしまったが、総合的にみてとても見応えのある面白い舞台だった。

アーサー・ミラーの他の戯曲の日本上演版があれば必ず足を運びたいと思う。

 

 

 

2020.2

燦々 てがみ座

『燦々』

作・長田育恵

演出・扇田拓也

出演・前田亜季、酒向芳、川口覚、石村みか、速水映人、ほか

 

あらすじ

鬼才の絵師・葛飾北斎を父に持つ娘・お栄。

彼女本人も、葛飾北斎のもとで、他の男弟子たちと共に幼いころから絵を描いていた。

上手いが、それだけだと言われてしまう自分の絵。

父に負けない本物の絵師となる覚悟を決めたお栄は、自分が女であるという事実や、偉大な父に対する劣等感を受け入れ、葛藤しながら、「自分だけの色、自分だけの絵」を描くために奮闘する…。

 

 

 

てがみ座を実は一度も観たことがなかったので、機会を見つけて観劇。

調べてみると、てがみ座では一番というほどエンタメ性の強い演目の再演だったらしい。

なるほど、北斎の娘であるお栄が、自分が女であるということや父に対する劣等感と戦いながら、絵師としての自分の進む道を見つけていく物語は、単純明快で分かりやすく、スピード感抜群で熱量に富んでおり、とても見応えがあった。

 演出も鮮やかで、火事を眺めているシーンのドラマチックさや、現実と夢の間を描いたような夜のシーンは空間としてとても美しかったし、要所要所で使われる、大きな薄い布(か、紙か。和紙のような強い紙かもしれない。)も舞台装置としていい味を出していた。

そのスピード感と物語性、舞台の派手さに呑まれたい観客にとっては、とても面白く刺激的かつ感動的な作品であっただろう。

ただ、一緒に物語の世界に連れていって欲しい観客にとっては、置いてけぼり感の否めない作品だったように思う。

 

まずは脚本だ。

シーンは一つずつ見れば面白い。しかしそれらがうまく作用しあって物語が進んでいくようには見えなかった。ぶちっぶちっと切れている感じ…。

特にお栄と結婚相手との線の空中分解加減といったら失笑ものだったし、また、善次郎との線も、後出し的に唐突にいろんな要素が小出しされていって、全くついて行くことができなかった。

①お栄⇔北斎、②お栄⇔善次郎、③お栄の成長という三つの筋それぞれに対して、描きたい独立したエピソードが多々あり、それを描きたいままに描いてしまったために、三つの筋が絡み合って一つの物語を作り上げているという太さが無くなっていたのではないだろうか。

 

フランス古典演劇の基本的劇作法に、”三統一”という考え方がある。

これは、ひとつの演劇作品内では、その日のうちに(時の統一)・同じ場所で(場所の統一)・発端から結末まで同一事項について(筋の統一)描くべきだとした理論である。

私個人の意見としては、それは演劇の可能性を狭めすぎると思うので完全に同意はできないが、この手法が一番シンプルで観客に伝わりやすいであろうことは確かである。

描きたいエピソードがたくさんあることは素敵なことである。ただ、三統一ほどのシンプルさとは言わないまでも、余計なものを見極めそぎ落とすことは、創作において確実に必要なことなのだと感じた。

 

また、これは演出の問題が大きいだろうが、

前のシーンで影響を受けた主人公が、次のシーンで少し成長している、という様を脚本は描いているはずなのに、

役者の発する台詞で前とは変わった事・成長していることを説明しているだけで、そこに実際の役の内面の変化をとらえることができなかった。

だから観客としては、「あ、そうなんだ。あそこで影響受けたからこのシーンでこう変わったのね。あなたが言うんだったらそういうことにしておきましょう。」という気持ちになって、冷める。”こういう風に見てくれよな”と言われているようで、押しつけがましく感じる。

そのセリフが観客の実感の補填のために使われているならまだわかるが、そのセリフによって観客が実感しなければならない構造になっていたので、置いてけぼりを食らったような気がした。 感情説明的な台詞を聞いて「あ、そうなんだ。」と思いたくない。「あ、”やっぱり”そうなんだ。」と思いたいのだ…。

舞台は美しく、派手で、見応えがあったが、肝心な人間の心模様が浮かび上がってきていなかった。演出の視点が大味だと感じた。

 

ただ、前述したとおり、物語自体は分かりやすいし、スピード感と熱量にあふれた、見応えのある舞台であった。明日も頑張ろう、と勇気を与えてくれるような作品だ。

演劇を初めて見る人などにとってはとても刺激的な初体験となるであろう。

そういう演目は確実に必要だし、このような演目で初めての人に向けたセールスをどんどんしてくださると、演劇人口が少しずつ増えていくのではないかと思う。

 

 

 

2020.2

みんな我が子 ナショナルシアターライブ

『みんな我が子 All My Sons』

作・アーサー・ミラー

演出・ジェレミー・ヘリン

出演・サリー・フィールドビル・プルマン、ジェナ・コールマン、コリン・モーガンほか

 

 

あらすじ

 

第二次世界大戦直後のアメリカ。舞台は主人公の中年男・ジョーの家の庭。

彼には妻と二人の息子がいて、自営業を営んでいる。兄クリスはジョーの仕事を手伝っているが、弟のラリーは兵隊に行ったまま音沙汰もなく3年の月日が経っていた。ジョーとクリスはラリーのことをもう諦めているが、母親であるケイトは未だにラリーの帰りを信じて待っている。

また、ジョーは3年半前とある事件によって裁判にかけられたが、無罪判決を受けた過去がある。しかし、同時に裁判にかけられた同志は有罪判決を受け、未だに投獄されたままである。

ある日、クリスに呼ばれてラリーの元恋人・アンがやってくる。実は、アンは有罪となったジョーの同志の娘であり、そんな彼女の来訪が、平和に見えたジョー一家の嘘を暴きだすきっかけとなり…。

 

 

 

NTL最近観ていないな、とふと思ったので、間を見つけて鑑賞。恵比寿ガーデンプレイス内のユナイテッドシネマにて。プレイス内でめちゃくちゃ迷って時間ギリギリに滑り込んだ。

 

 

現代イギリス演劇における最高峰を、スクリーンで体感した気分だ。

やはりまず戯曲が素晴らしい。

『All My Sons』は未読であったが、ドラマの豊かさと大胆さ、それでいて繊細に描かれた人間模様、そこから浮かび上がってくる強烈な社会批判…さすがアーサー・ミラーである。

アーサー・ミラーはどこにでもいるような人たちを描き、誰にでも起きうるような小さな出来事を描く。それは観客に大きな共感を呼ぶ。しかしアーサー・ミラーの凄いところは、その小さな出来事をいくつも舞台上に起こらせて、それらを緻密に積み上げ、観客を極限まで引き寄せてから、想像だにしないようなドラマを最後にぶち込んで観客を突き放すところだ。

鑑賞後、観客はそのショックを胸に抱えたまま劇場を出るだろう。そして自ずと今観た作品について考えを巡らす。すると自分が共感しながら観ていた小さなシーンやそこでの会話が、最後の展開に影響していたことを知り、それが自分たちの生活にも起きうること、実際起きていること、そしてそれを批判されていること、といった戯曲のもつ含蓄に気付くだろう。

そこから先の影響はクリエイターがどうすることもできない、観客のパーソナルな問題だ。個人が、社会が、少し優しくなるかもしれないし、楽しくなるかもしれないし、もっと悪くなるかもしれないし、何も変わらないかもしれない。

でもとにかく、これ以上ないほどの演劇体験を提供できる力を、アーサー・ミラーは持っている。それを身に染みて感じた時間だった。

 

 

しかしもちろん、演劇というものは作家アーサー・ミラーの力だけで完成するものではない。

今回のNTLの『みんな我が子』は、スタッフワーク・役者陣ともに素晴らしかった。彼らそれぞれの力が作用しあってこそあんな作品になったのだろうということを、どのシーンを見ても感じさせてくれた。

 

 

特筆すべきは照明だ。

派手ではない照明に感動したのははじめてかもしれない。

とある日の午前中から真夜中にかけてが舞台だが、その時間ごとに雰囲気の変わる自然さ、照明によって変わる俳優の表情の見え方…。シーンの持つ意味を忠実に理解し、戯曲・俳優・セット全てを深化させる、縁の下の力持ち的な照明だった。派手ではないが、全てをより良く魅せている。なんてスタイリッシュなんだろう…。

 

 

役者陣ももちろん素晴らしかった。

戯曲自体の読み込み、自分が演じるキャラクターの読み込み、関係性の読み込みが全員とてつもなく深い。

「そんなの当たり前だろ」と思う方もいるかもしれないが、役者は往々にして独りよがりになってしまったり、全員が少しずつ違う方向を向いていたり、戯曲が求めているほど深く読めていなかったりすることがある。そのあたりのバランスを取るのは本当に難しいのだ。

その点今回の役者陣は、個々人の読み込みが深いのはもちろん、ひとりひとりの向かっていく方向にズレがなく、お互いがお互いに作用しあって、とてもまとまりのある作品を作っていた。これに関しては演出家のディレクションが素晴らしかったのだろうとも思う。

 

 

何にせよ、実のある小さな積み重ねを目の前で見せられて、

きっと戯曲が求めている以上に観客を引き付けてくれて、最後のシーンを迎える頃には自分が舞台上にいる人間かと思うほど没入して観ていた。

最高の演劇体験だった。いつか本場で、生で観られたらと思う…。

 

 

 

2020.1.

 

『少女仮面』 世田谷パブリックシアター提携

『少女仮面』

作・唐十郎

演出・杉原邦夫

出演・若村麻由美 木﨑ゆりあ 大西多摩恵 武谷公雄 井澤勇貴 水瀬慧人 田中佑弥 大堀こういち 森田真和

 

 

あらすじ

地下に妖しく店を構える喫茶”肉体”。

そこに、宝塚の大スター・春日野八千代にあこがれる少女・貝が老婆と共にやってくる。

そこには主任の男、二人のボーイがいて、他にも喫茶には腹話術師と人形、水を飲みたがる男がやってくる。

喫茶肉体で亡霊となって漂い続ける春日野は、いつまでも自分の肉体を探し続けている…

 

 

 

役者陣が裏方服に身を包み、舞台上を片付けたり必要なセットを設置したりするところから舞台は始まった。この”現実”から”嘘”を作り上げている様子を最初に見せる演出が、最後春日野が肉体への羨望を自分から切り離したところで、一気に”嘘”から”現実”に引き戻す演出に繋がっているのが、なかなか残酷で面白かった。

『少女仮面』は戯曲を一度読み、今年小さい舞台で上演されていたものを観たが、今回の『少女仮面』はかなり整理された演出で、あの分かりにくい戯曲をよくぞここまでわかりやすく描いたな…とも関心。照明や演技の要所要所の粒立てにより、「あ、こういう意味だったんだ」と初めて気づいた部分もあった。

 

ただ、やはりこの戯曲は狭すぎるくらい狭い箱が合うのだと感じた。

地下の秘密の喫茶店が舞台となっているが、今回のようにプロセニアムのちゃんとしたシアターではその閉塞感がなく、不穏さや異様さ、こんなに小さな世界で春日野が肉体を求め続けているという不条理さがなかなか前面に出ていなかった。

アングラ演劇として描かれた作品はこの部分が難しい。

 

 

難解な戯曲が演出によって整理されておりわかりやすかったと前述したが、これもまた良いことなのかどうかと聞かれると難しい。

というのも、春日野をはじめとして、主任、水飲み男など、この戯曲には整理しきれない怒りや悲しみを抱いている人たちばかりが出てくる。故に、戯曲の要求している言動・行動は、理性的に整理しながら創ったり演じたりしていてはたどり着けない部分にあるのだ。

 

俳優の山崎努氏が自著『俳優のノート』の中で、「(自分が演じる役の)分からない部分を、分からないままにすること。人間には一貫性がなく、本人としても分からないままに感情が動いたり、何か言ってしまったりすることがあるのだから。」というようなことを書いていたが全くその通りだと思う。

創り手として分からない部分を分からないまま残すことには勇気がいるが、理性でどうにもならない部分をヨイショしてどうにか演じることにより、また違ったエネルギーが客席に届くのだと思う。「没入感情の先に超越があることを、サラヴィーダは知っていた!(劇中台詞)」だ。

今回の戯曲にはその部分が必要だと思うのだが、今回の『少女仮面』は良くも悪くも整理されていて、「あーそういう風にやりたいのね。じゃあそのように受け取ります。」と、こちらも大分引いた目線で観ていた感覚がある。

 

 

しかしとにもかくにも、唐十郎氏による『少女仮面』、やはり戯曲が素晴らしく、見応えがあった。

当時の社会情勢や社会批判が密度高くドラマ性高く描かれており、エンタメとしても芸術としても第一級だった。もう一度読んでみようと思う。

 

 

 

2020.2

存在のない子供たち

 

『存在のない子供たち』(2018年、レバノン

脚本・監督:ナディーン・ラバキー

出演:ゼイン・アル=ラフィーア、ヨルダノス・シフェラウ、ボルワティフ・トレジャーバンコレ、ナディーン・ラバキー

 

 

あらすじ

 

舞台は中東のスラム。

少年・ゼインは、両親と大人数の兄妹と共に暮らしている。ゼインをはじめ、兄妹たちは自分の誕生日も年も知らず、戸籍すら存在しない。社会的には”存在していない”ことになっている子供たちは、両親に強いられ、お金を稼ぐために学校にも行かず路上でジュースや薬物を売ったり、万引きをして日々の食料を得たりしている。

低賃金で家を貸してくれている地主の男には、一家全員頭が上がらない。ゼインの両親は、もともとの約束だったとして、初潮が始まったゼインの妹をその男の嫁にやってしまう。大切な妹を理不尽に奪われたゼインは、怒りと悲しみから家を飛び出して…。

 

 

 

 

 

少年・ゼインをはじめ、ゼインが出会う不法移民の女性・ラヒル、その息子のヨハンを演じる役者陣が、スクリーンの中で稀有な輝きを放っていて、どこまでも観客の目を惹きつける。

調べてみると、監督やキャスティングディレクターが、物語の登場人物に近い境遇を持っている人々をスカウトしキャスティングしたそうで、彼らの中にこれまで役者業や芸能活動をしていた人はいないそうだ。

結局ニセモノはホンモノに敵わないのかしら、と若干心苦しくもなったが、ある意味別物なのだろうから、これについての議論は控えておく。

 

 

 

妹を失い家を飛び出したゼインは、家にあった少額のへそくりを頼りにバスに乗り、どことも知らぬ町にたどり着く。

認知症のピエロ、そのピエロを追ってたどり着いたとある遊園地、そこで出会った女性・ラヒル。ラヒルは不法移民の身で、たった一人の息子・ヨハンのために身分を偽りその遊園地で働いている。ゼインはラヒルの家に転がり込み、ヨハンのお世話を請け負う。

 しかし、ラヒルは偽身分証明書を作成するお金を用意できずに、結局不法移民として逮捕され、ゼインとヨハンはスラム街に取り残されてしまう。

 

 

ヒルのたった一人の息子への愛、しかしどうすることもできない自分の状況、ゼインをある種利用せざるを得なかったことへの罪の意識、そしてその正当化…

また、取り残されたゼインが必死にヨハンを守りながら生きようとする姿、周りの大人を信用できず、ひたすら自分で自分を奮い立たせながら這い蹲って生きるも、最終的にはヨハンを売り渡しスウェーデンに亡命することを決意するに至る過程…

 

全体を通して台詞の少ない映画だったが、役者陣の目が様々なことを物語っていたために、人物の気持ちやお互いのやり取りの情報量が膨大だった。

あまりにも今わたしが暮らしている状況とは異なるけれど、国や社会、文化や家族が原因で、自己存在を抑圧されながら生きている人々の生きざまや感情が、躍動感あるスクリーンから絶え間なく伝わってきて胸が痛くなった。

 

 

 

 

 結局、ゼインはヨハンを売り渡す際に必要となる自分の身分証明書を取りに家に帰り、「そんなものはない」と親父に言われて初めて自分には戸籍すらないことを知る。同時に地主のもとに嫁に行った妹が暴行の末死亡していたことを知り、逆上したゼインは地主を包丁で刺し、逮捕されてしまう。

投獄中面会に来た母が、また妊娠をして、自分や妹のように苦しむこととなる子供を再び産もうとしていることを知ったゼインは、両親を相手に「彼らが自分を生んだ罪」において裁判を起こす。

 同時に某人気テレビ番組にも電話での出演をし、自分たちの置かれている状況をあかし助けを訴えたことから、世間にこの実態が知れ渡り、ゼインやラヒル親子に多少明るい未来が見え始めた…ところでこの映画は終わる。

 

 

あまりにも役者陣の演技が真に迫っているためドキュメンタリー映画なのではないかと錯覚するが、しっかりとドラマが構成されていて、途中心苦しくてどうしようもなかったものの、最後には子供たちの未来が少しは開かれた、という終わり方が小気味よかった。

 

全体を通して、ドラマのシンプルさと役者陣の演技でかなり魅せられた映画だった。

ただ、そのシンプルさを前面に押し出して、それだけで勝負してほしかったという気持ちも同時にある。

たとえば、カメラを手でもって撮影する手法(なんという手法なんでしょう…映している役者と一緒にカメラマンが走るみたいな、アレです)を頻繁に使っていて、必要以上に画面に臨場感が出すぎて逆に気が散った。役者のリアルな気の流れも見えづらくなるので、そこはカメラをシンプルにドンと構えて人物を切り取ってくれていたほうが、変に工夫をこらせるよりもこちらに伝わってくるものが多かったのではないだろうか。

 

また、冒頭を始め途中途中で挟まれる法廷シーンの入れ込み方が効果的でなく、流れを滞らせていた気がする。かといってどのような構成にすればよかったかということは、一度しか見ていないので具体的には言えないが…。

 

 

自分が知らない世界の話を知るのはいつだってショッキングだ。

でもこのような映画が世界のどこかで作られ、それが海を渡り自分の国の言葉で観ることができるというのは、映画というメディアの素晴らしさの一つである。

知らないで生きていたこと、生きていけることに対して無自覚であるのは簡単だが、きっかけがあるのであれば、そこに飛び込んで観てみるのは同じ地球に住んでいる者の義務であるとすら感じた。

義務は言い過ぎかしら。でもそう思った。

 

 

 

2020.1