徒然

映画や演劇をみるひと

「森 フォレ」

「森 フォレ」

 

作・ワジディ・ムワワド

翻訳・藤井慎太郎

演出・上村聡志 

出演

成河 瀧本美織/栗田桃子 前田亜季 岡本玲 松岡依都美/亀田佳明 小柳友 大鷹明良/岡本健一 麻実れい

 

 

あらすじ(公式HPより引用)

 

1989年11月ベルリンの壁崩壊直後、モントリオールに住むエメ(栗田桃子)に発作が起き、知るはずもない第一次世界大戦中のフランス兵・リュシアン(亀田佳明)の名前を口にする。妊娠中のエメの脳に生じた悪性腫瘍がその原因として考えられ、エメが生き延びる為には、堕胎を選択するしかなかったが、彼女は出産を決断し、娘ルーを産んだ。その後エメは意識不明の状態に陥り、15年後に息をひきとった。

20歳に成長した娘ルー(瀧本美織)は、偶然にも母エメと同じ形をした第二次世界大戦時の被害者の頭蓋骨を所持するというフランスの古生物学者ダグラス(成河)の来訪により、母の死の真相を、父バチスト(岡本健一)から聞くことになる。「母エメは双子を妊娠したが、男児の方が、エメの子宮から脳へと移り住み、まるで、その男児が悪性腫瘍を引き起こしたようだ」と。

ダグラスの説得により、ルーはカナダ北部セントローレンス川の畔に住む、母を捨てた祖母リュス(麻実れい)に会いに行くことになるが、さらにリュスの母が第二次世界大戦レジスタンスとして生きたリュディヴィーヌ(松岡依都美)であるということを知る。ルーとダグラスは偶然に導かれながら、自らのルーツを探るために、フランスへと旅立って行く……。

 

 

 

 

「炎 アンサンディ」、「岸 リトラル」に続く、ワジディ・ムワワドによる血の三部作の三部目。

わたしは前作二作は未見だが、独立した話として見ることもできると聞いて、観劇を決めた。

 

2014年の「炎 アンサンディ」初演、2017年の再演、さらに2018年の「岸 リトラル」と、前作二作の創作を共にしてきた出演者の栗田、亀田、小柳、麻美、岡本(健一)が、上村の壮大かつシンプルな演出のもと、作品全体にまとまりをもたらしている。

そこに異質な風を吹き込んでいる(これは意図的に異質であろうとしたわけではないだろうが)瀧本・成河のふたりが、家族の出自を明らかにせんと血筋を辿っていくという、物語を進める役回りとしてフレッシュに立ち回る…。

 

 

時代時代で家族や個人のもつ問題は変化しながら、

その呪いや想いが因果となって後世に複雑に絡みついてくる。

そこにはその時々の世情が関わっており…

 

この複雑な因果関係を、壮大なスペクタクルを持つ戯曲としてひとつにまとめあげたムワワドもムワワドだが、

その戯曲を、視覚・体感的に新たな発見を観客にもたらすことのできるものに立ち上げた上村も上村だ。

 

スタッフワーク全般を含め、複雑な物語に観客がのめり込んで、自分が共に体験しているのではないかと錯覚を起こさせるほど、時代ごとの世界観が綿密に創り上げられている。しかし余白も十分にあり、作り込み過ぎないその世界観によって、観客は拒否感も起こさず没頭できる。

このスタッフワークの布陣も「炎 アンサンディ」の初演から変わっていないらしい。お互いがお互いの仕事に対し既知であり、信頼をおいているであろうことがよくわかる。

足し算ではなく掛け算の素晴らしいスタッフワークだ。

このきもちよさは劇場でしか感じ得ないものである。素晴らしいというほかない。

 

 

ただ、世界と個人とを行き来しながら、時に惑わされ時に憎みあい時に愛し合ってきた人間たちの現代に続く物語の行きつく先が、結局「すべてを背負って生きていく」であったことに拍子抜けした感はいなめない。

上村の演出としても、最後に全員総出演させるという、珍しくありきたりな演出に、想像力をそがれ若干冷めたのも事実である。

人間の身体というのは結局制約の多い物体だ。

ラストはそれらに責任を負わせるよりも、ルー(瀧本)ひとりと空間・時間のみに頼った方が、上村自身のいう「歴史と個人の一大抒情詩」を、無限の広がりをもって感じることができたのではないだろうか。

 

 

と、いうのはただの私個人の好みの問題で、この舞台が、昨今日本で見ることのできるストレートプレイの中で、一二を争うほどの良作であることは疑いようもない。

 

 

目撃できためぐりあわせに感謝している。

 

 

 

 

2021.7.10.