徒然

映画や演劇をみるひと

ラストレター 岩井俊二監督

『ラストレター』(2020年、日本)

 

原作・監督:岩井俊二

キャスト:松たか子福山雅治広瀬すず、森七菜、神木隆之介庵野秀明

 

あらすじ

才色兼備でみんなの憧れである未咲を姉に持つ、2個下の妹、裕理。

転校生としてやってきた、未咲と同級生の乙坂鏡司郎。

そんな三人が青春を過ごした高校時代はもうとっくに過ぎ去り、

四半世紀ほどたって、未咲の葬儀にて裕理と鏡司郎が再会するところから物語は始まる。

未咲の死の理由、鏡司郎が抱えた葛藤、姉妹の娘たちが生きる現在…未咲の死をきっかけに、止まっていたそれぞれの時間が動き出す。

 

 

群像劇にしてはそれぞれの人物の書き込みが甘く、

鏡司郎が過去現在未来をつなげて昇華していく話にしては中途半端で、

それでも前向きに未来を生きていこうエンドにしては消化不良だけど、

明るく別れても前途は多難エンドにしては軽すぎる。

という、なんとも雑な映画だった。

 

流石、画や音楽は美しく、役者陣の演技も自然体で、よくあんなトンチンカンな人間たちを少しは愛せるように演じてくれたもんだと思う。

確かに、(未咲の娘の)鮎美については、抱えている過去も、鏡史郎との出会いをきっかけに母の死を受け入れるまでの流れも、美しく描かれていて共感できた。また、その従妹の颯香については、鮎美との対比がうまく描かれており、本人のみならず二人の関係を魅力的に見せていてとてもよかった。

 

雑過ぎて愛せないのは、過去の三人のキャラクター造形である。

”多くは描かないので想像力で保管してみてくれ”というスタンスなのだろうが、状況のファンタジーさはともかくとして、人物たちすらもファンタジーで常人離れしていては、共感ができず想像力を働かせることもできない。

 

 

 

 

どんなジャンルの映画や演劇であれ、人物や、その関係性や、その関係性が変化していく様を繊細に描くことが観客を惹きつけたり、共感や感動を呼んだりすることに繋がるのであるということ、

また、ストーリーとして向かう場所が曖昧であると、一本の映画の出来として消化不良感が残るのだということを再確認した。

ただ、一瞬一瞬の美しさを描かせると最高の監督だと思うので、それで誤魔化されてしまった場所も多々あったのが悔しいところ。

 

というような感想を、『スワロウテイル』を除き、私は岩井監督の作品には軒並み抱いている。ただただ私の感覚と合わないのであろうと思う…。

 

 

 

2020.1

タージマハルの衛兵 新国立劇場 シリーズことぜんvol.3

 

『タージマハルの衛兵』

 

作:ラジヴ・ジョセフ

訳:小田島創志

演出:小川絵梨子

出演:成河、亀田佳明

 

 

シリーズことぜんの第三作。

大好きな俳優ふたりによる二人芝居ということで、何がなんでも見ると決めていた作品。

 

 

あらすじ

 

場所は1648年のムガル帝国・アグラ。

二人の下っ端衛兵が、大きな壁の前に立ち、警備をしている。

その壁の向こうには、建設途中のタージマハルがある。時はそのタージマハルの完成お披露目の前日。

「この世で最も美しい建設物である」

と謳われながらも、

「建設期間中は誰もその姿を見てはならない」

と皇帝シャージャーハーンによって定められているため、まだその姿を見たものはいない。

 

警備についている二人は昔からの親友であった。警備中は私語をしてはならないと定められているにもかかわらず、タージマハルお披露目をついに明日に控え気分が高揚していたバーブルは、隣で警備を全うしているフユーマーンに話しかけてしまう。

 

夜長の取り留めもない会話の間に、

国や権力が作用し、

二人の運命は、二人が予想だにしなかった方へ向かっていく…。

 

 

 

 

 

 

空想家で、なぜ?を考え続けるバーブル。

現実主義で、権力に従順なフユーマーン。

 

全く違うふたりだが、小さい頃からの仲であり、現在は"建設中のタージマハルの警備"という同じ仕事についている。

 

壁の後ろのタージマハルや、

私語厳禁というお達しが意識される中、

二人は過去や空想や皇帝やタージの建築士や自分たちの生活について話し続ける。

 

 

次の場で、「タージマハル建設に関わった二万人の両手を切り落とせ」という皇帝から命ぜられた任務を全うした後、

バーブルは「美を殺したのは自分だ」と訴える。

一方フマーユーンは、「俺も殺したが仕方がなかった」と主張する。

 

「終わったことだ」と自分とバーブルを納得させようとするフマーユーン。

そんなフマーユーンに「想像しろよ!」と詰め寄るバーブル。

そこには個人が個人を想うごく当たり前な感情と、

それをせき止めんとする権力の作用、

国に生きる個人としての葛藤がうずまく。

 

 

二人は最終的に最悪な形で道を違えるのだが、

ラストシーンで一人、タージマハル警備を続けるフマーユーンは、

二人の運命を決めた責任の所在を国にも自分の中にも見つけ出すことができず、見つけようともせず、ただ心に重い鉛を抱えて立ち続けているように見える。

その姿は私たちに、「わたしだったら、どうしていただろう」という問いを自然と突きつけてきた。

 

 

 

とにかく、二人の俳優の会話の緻密さが凄まじかった。
脚本もここまで書くか!というほど細かいし、演出も何一つ見逃さない細かさなのに、それについていっていた二人の俳優が本当に凄まじい。

前を向き直立していたり、ひたすらに床掃除をしなければならなかったり、という身体的制約があるにも関わらず、積み重なっていく二人の間の時間や空気には何一つ嘘偽りがなく、観客は目の前で起こる出来事の一つ一つを新鮮に受け取っていた。

舞台美術もシンプルでありながら大胆な仕掛けが施されており、場ごとの雰囲気がガラッと変わる。照明や音楽も相まって、転換の際にもいちいち演劇的な興奮を味わった。

 プロフェッショナル達がお互いに何一つ妥協なく創りあげた作品は、ここまで圧倒的に観客を消費者にさせてくれるのだと感激した。

 

 

こういうものをもっと観たいし、観てほしいし、創りたい。

 

 

2019.12.25.

あの出来事 新国立劇場 シリーズことぜんvol.2

 

『あの出来事』

新国立劇場 シリーズことぜんvol.2

作:デイヴィッド・グレッグ

演出:瀬戸山美咲

出演:南果歩小久保寿人

 

新国立劇場の”シリーズことぜん”の第二作目。

「ことぜん」とは「個と全」という意味で、この秋新国立劇場の小劇場で上演される三作品を通して、このテーマをもとに考え、創作することを目的とした新しい試みである。

第一作目の『どん底』は見逃してしまったが、第三作の『タージマハルの衛兵』はすでに予約してあったので、どうせなら第二作も見ようと観劇を決めた。

 

 

 あらすじ

2011年、ノルウェーウトヤ島で実際に起きた、青少年による銃乱射事件をモチーフに描かれたフィクション。

地方の合唱団の指導者である女性・クレアは銃乱射事件の生存者であるが、その事件により心に深く傷を負った。しかし次第に「彼があんな事件を起こした理由を知らなければ、憎むこともできない」と考えるようになり、少年の銃乱射事件を起こさなければならなかった原因を突き止めるため、あの手この手で彼個人の人間性を知ろうとする。最終的に彼女はその少年と対面することとなるが、二人の間にはどのような対話が生まれるのか…

 

 

出演者は男女二人。しかし他に合唱団員として三十名ほどが出演し、時折合唱団員として関わったり歌ったり、モチーフとして歌ったりなどして、劇全体に色を付けていく。

女性は劇全体を通してクレアという女性を演じる。

犯人の少年を含め、その他クレアが出会う様々な人々を、一人の男性が演じる。

その戯曲構造により、観客が自ずとクレアに移入しながらその劇を目にすることとなるので、クレアと共に旅をしている感覚になる。

 

世間からただの頭のおかしい悪者として扱われている犯人に対して、クレアは「彼は精神異常者なの?それとも本当に悪者なの?」と疑問をもち、「精神異常者なら不可抗力で終わる。でも”悪者”なのだとしたら、その原因を正しく知れば赦せるかもしれない」と彼に傾倒し、彼を知りたい一心で、彼の精神を築き上げた人々と面会していく。

彼のことを知れば知るほど、彼女は自分と世間との彼に対する温度差に気付いていく。それでも「わたしは彼を赦せるはず、赦したい」という執着ともとれる感情で突っ走っていく。

しかし”あるタイミング”(これについては後述)で、彼女は結局自分が彼のことを心底憎んでいることに気付き、彼を毒殺する気持ちを持って収容所にいる彼に面会しに行く。しかしそこで彼と話していると、あまりにも彼の思想が自分の予想や理想と異なったため、何一つ彼に近づいていなかったことに気付き絶望し、結局殺すこともできずに物語は終わる。

 

 

 理解できない人間に対して近づこうとする者、理解できないと突っぱねる者、理解しようとしてあきらめた者、不干渉な者…

そして、理解できない行動に出た人間に対して、個人を原因と考えるか、世間=社会を原因と考えるか、人間を原因と考えるか…

 

自分の守りたい生活がある者と、真実を知りたい者と、そもそもどうでもいい者の間には大きな隔たりがある。しかしそのすべての人間が、同じ”社会”を構成する”個人”である。

クレアは”個人”であるが、個人として個人を知りたいという気持ちで始めた旅で、”個人”と”社会”との隔たりをも実感していく。

この隔たりを描くことによって、この劇は、”個人”として”社会”に生きるすべての人に0か100では終わらせない問題を投げかける。

 

 

しかし残念だったのが、この戯曲の構成を無駄にしている演出と演者である。

まず演者に関して。

今回の構成ではどんどん高まっていくクレアの緊張感が重要なのにもかかわらず、南さんと小久保さんは自分のやりたいことだけをやっていて、お互いに影響しあっていないため、緊張感が何も生まれない。なので戯曲の持つ積み重ねがうまく表現されず、重要な場面でのクレアの行動が唐突に思えたりした。この重要な場面というのが前述した”あるタイミング”なのだが、ここが分からなかったためにもうその後はちんぷんかんぷんだ。これは戯曲が望んでいた上演のされ方ではなかったように思う。

 

では演出は、その役者のやりとりのちぐはぐさを修正せず、どこに視点を置き、何を大事に演出していたのか。

それが理解できたらまだ演者の芝居に対してここまでは思わなかったかもしれない。

だが理解できなかったのだ!ジエンド。詰み!

合唱団の配置の仕方ひとつとっても、単なる傍観者としてそこに立たせたいのか、様々なバックグラウンドを持つ社会の人々として立たせたいのか、はっきりしない。きっと後者を表現したいんだろうけれど、それにしては居所や干渉の仕方が中途半端だ。

時空の飛ばし方、緊張感の表し方も、紋切り型に頼っただけという印象でこだわりを感じない。 

ここは小さくクローズアップして見させたい、ここは大まかにみてほしい、ということがもう少しはっきりしているともっと物語が見やすくなるように思う。

 

戯曲が素晴らしい構成と内容だと感じた分、あの程度の作品に落ち着いてしまったところを見ると、どのように稽古が進んでいたのか気になる演劇であった。

 

 

 2019.10.