徒然

映画や演劇をみるひと

存在のない子供たち

 

『存在のない子供たち』(2018年、レバノン

脚本・監督:ナディーン・ラバキー

出演:ゼイン・アル=ラフィーア、ヨルダノス・シフェラウ、ボルワティフ・トレジャーバンコレ、ナディーン・ラバキー

 

 

あらすじ

 

舞台は中東のスラム。

少年・ゼインは、両親と大人数の兄妹と共に暮らしている。ゼインをはじめ、兄妹たちは自分の誕生日も年も知らず、戸籍すら存在しない。社会的には”存在していない”ことになっている子供たちは、両親に強いられ、お金を稼ぐために学校にも行かず路上でジュースや薬物を売ったり、万引きをして日々の食料を得たりしている。

低賃金で家を貸してくれている地主の男には、一家全員頭が上がらない。ゼインの両親は、もともとの約束だったとして、初潮が始まったゼインの妹をその男の嫁にやってしまう。大切な妹を理不尽に奪われたゼインは、怒りと悲しみから家を飛び出して…。

 

 

 

 

 

少年・ゼインをはじめ、ゼインが出会う不法移民の女性・ラヒル、その息子のヨハンを演じる役者陣が、スクリーンの中で稀有な輝きを放っていて、どこまでも観客の目を惹きつける。

調べてみると、監督やキャスティングディレクターが、物語の登場人物に近い境遇を持っている人々をスカウトしキャスティングしたそうで、彼らの中にこれまで役者業や芸能活動をしていた人はいないそうだ。

結局ニセモノはホンモノに敵わないのかしら、と若干心苦しくもなったが、ある意味別物なのだろうから、これについての議論は控えておく。

 

 

 

妹を失い家を飛び出したゼインは、家にあった少額のへそくりを頼りにバスに乗り、どことも知らぬ町にたどり着く。

認知症のピエロ、そのピエロを追ってたどり着いたとある遊園地、そこで出会った女性・ラヒル。ラヒルは不法移民の身で、たった一人の息子・ヨハンのために身分を偽りその遊園地で働いている。ゼインはラヒルの家に転がり込み、ヨハンのお世話を請け負う。

 しかし、ラヒルは偽身分証明書を作成するお金を用意できずに、結局不法移民として逮捕され、ゼインとヨハンはスラム街に取り残されてしまう。

 

 

ヒルのたった一人の息子への愛、しかしどうすることもできない自分の状況、ゼインをある種利用せざるを得なかったことへの罪の意識、そしてその正当化…

また、取り残されたゼインが必死にヨハンを守りながら生きようとする姿、周りの大人を信用できず、ひたすら自分で自分を奮い立たせながら這い蹲って生きるも、最終的にはヨハンを売り渡しスウェーデンに亡命することを決意するに至る過程…

 

全体を通して台詞の少ない映画だったが、役者陣の目が様々なことを物語っていたために、人物の気持ちやお互いのやり取りの情報量が膨大だった。

あまりにも今わたしが暮らしている状況とは異なるけれど、国や社会、文化や家族が原因で、自己存在を抑圧されながら生きている人々の生きざまや感情が、躍動感あるスクリーンから絶え間なく伝わってきて胸が痛くなった。

 

 

 

 

 結局、ゼインはヨハンを売り渡す際に必要となる自分の身分証明書を取りに家に帰り、「そんなものはない」と親父に言われて初めて自分には戸籍すらないことを知る。同時に地主のもとに嫁に行った妹が暴行の末死亡していたことを知り、逆上したゼインは地主を包丁で刺し、逮捕されてしまう。

投獄中面会に来た母が、また妊娠をして、自分や妹のように苦しむこととなる子供を再び産もうとしていることを知ったゼインは、両親を相手に「彼らが自分を生んだ罪」において裁判を起こす。

 同時に某人気テレビ番組にも電話での出演をし、自分たちの置かれている状況をあかし助けを訴えたことから、世間にこの実態が知れ渡り、ゼインやラヒル親子に多少明るい未来が見え始めた…ところでこの映画は終わる。

 

 

あまりにも役者陣の演技が真に迫っているためドキュメンタリー映画なのではないかと錯覚するが、しっかりとドラマが構成されていて、途中心苦しくてどうしようもなかったものの、最後には子供たちの未来が少しは開かれた、という終わり方が小気味よかった。

 

全体を通して、ドラマのシンプルさと役者陣の演技でかなり魅せられた映画だった。

ただ、そのシンプルさを前面に押し出して、それだけで勝負してほしかったという気持ちも同時にある。

たとえば、カメラを手でもって撮影する手法(なんという手法なんでしょう…映している役者と一緒にカメラマンが走るみたいな、アレです)を頻繁に使っていて、必要以上に画面に臨場感が出すぎて逆に気が散った。役者のリアルな気の流れも見えづらくなるので、そこはカメラをシンプルにドンと構えて人物を切り取ってくれていたほうが、変に工夫をこらせるよりもこちらに伝わってくるものが多かったのではないだろうか。

 

また、冒頭を始め途中途中で挟まれる法廷シーンの入れ込み方が効果的でなく、流れを滞らせていた気がする。かといってどのような構成にすればよかったかということは、一度しか見ていないので具体的には言えないが…。

 

 

自分が知らない世界の話を知るのはいつだってショッキングだ。

でもこのような映画が世界のどこかで作られ、それが海を渡り自分の国の言葉で観ることができるというのは、映画というメディアの素晴らしさの一つである。

知らないで生きていたこと、生きていけることに対して無自覚であるのは簡単だが、きっかけがあるのであれば、そこに飛び込んで観てみるのは同じ地球に住んでいる者の義務であるとすら感じた。

義務は言い過ぎかしら。でもそう思った。

 

 

 

2020.1