徒然

映画や演劇をみるひと

「バクで、あらんことを」くによし組

「バクで、あらんことを」

 

作・演出 國吉咲貴

出演(Aチーム)

井田ゆいか、⾦⽥侑⽣(HYP39Div.)、木幡雄太(アナログスイッチ)、國吉咲貴(くによし組)、佐藤有里子、鈴木あかり(第27班)、手塚けだま、中野智恵梨、⼋島さらら(LAL)

 

 

あらすじ(公式HPより引用)

 

容姿も中身も自己評価30点のモリコが暮らす田舎町に、大ニュースが舞い込んだ。

有名な映画監督ソソノマソソルが、町に住む女性限定の主役オーディションをするというのだ。役柄は「バク」

軽い気持ちでオーディションに応募したモリコはなんと最終審査進出。

するとすかさずモリコに、生まれて初めて欲が出た。

 

「このチャンスを、逃したくない!」

 

 きたる最終審査。会場に現れたモリコに、場内は騒然。

モリコは顔を「バク」に整形してきたのだ。

同じく最終審査に残ったメデューサの子孫のメデュ子や、貞操観念アッパラパーなイーナ、豊胸貯金を貯め続けるムムは、モリコの行動に心を揺さぶられ、やがて価値観が崩れ出す。

 

バクになりたい。

バクであって欲しい。

バクだったらよかったのに。

これは、夢を叶えようともがく人々と、夢から覚めた人々を描くお話。

 

 

 

 

約3年ぶりに観劇で訪れた王子小劇場。あれ、こんなに小さかったかしら…という驚き。

 

さておき、くによし組をしっかり見るのは初めてだ。

今回は、主宰兼作演出の國吉咲貴さんのnoteを読んで興味が湧いたことで観劇を決めた。

 

久々の小劇場観劇。

客入れ中の音楽もM0(エムゼロ。芝居の始まりの、一番最初に流れる音楽)も、サブカルと称される女性ボーカルバンドの曲。照明やシーンがひっきりなしに変わる。ワーワー喋る役者の言葉は聞き取りづらい…。

これだこれだ、と、自分の中の小劇場像と答え合わせをしながらの観劇となった。

小劇場の良さはこれである。全く訓練されていない身体と声で、粗削りな芝居で、無防備に舞台上に立つ。あの無防備さはある種、新劇俳優などには見受けられない無防備さだ。その無防備さが最悪な結果をもたらしている芝居を見てしまったことも一度や二度ではないが、功を奏している芝居を見たことも一度や二度ではない。

 

 

今まで誰にも認められてこなかった女の子が、オーディションのため、顔をバクに整形し、

その「自己犠牲」が周囲の人間の尊敬を集めることとなり、東京で女優としての活動を開始する。

「この町の誇り」と大好きな親友・スナオに言われ、その言葉だけを頼りにひとり奮闘するも、顔がバクであるが故、女優としての仕事はどんどん減っていき、ここ何年かは自分を笑いものにするようなバラエティやどっきり番組に出演するばかりである。そしてその仕事さえも、最近はもうほとんどない。世間に消費され、飽きられたのだ。

 

「モリコが頑張っている姿を見ると頑張れる」

とスナオに言われたから頑張り続けてきたものの、

久しぶりに町に帰ってきたら、スナオは事故で死んでいた。

 

笑われないと自分の存在価値がないと感じる自分。

自分はどこで間違えたのか。

自分はむかしどんな人間だったのか…

 

そんなような閉塞感やどうしようもなさや想いを、戯画的なシーンを重ねてファンタジーとして描くことで、劇中のモリコ自身も、観客も、夢か現か分からないところに連れていかれる。

ある種、万人が今までに一度は抱いたことのある自己存在に対する疑問や悩みを、

個性が強く不器用なキャラクターたちの会話や独白を通して描く戯曲は秀逸。

最終的に、モリコの幼馴染であるメデュ子が、自分はどこで間違えたのかと吐露するモリコに対して、「昔のそのまんまのモリコじゃないか」と言ってのけるシーンは、全人類が心に飼っているモリコを救済する言葉である。

 

しかし、脚本に詰め込んだ要素がいささか多すぎて、観客の注意や興味が散漫になったという点も否めない。

「夢を持っていていいなぁ、未来があるっていいなぁ」とモリコを眺めながら、いつも死にたがっていたスナオ。

メデューサ博物館を継いで、改装オープンしようとしている、だんだん目が見えなくなってきているメデュ子。

バクに整形したモリコに触発され、枕営業をしまくり貞操観念がぶっ飛ぶイーナ。

同じくモリコに触発され、豊胸手術を繰り返すようになり、その右胸が一個体として意思を持つようになるムム。

他にも何名かの個性的なキャラクターに、作者が描きたいであろう人間たちが詰め込まれていたのだが、展開自体がジェットコースターな中に、キャラクター達もジェットコースターだと、主題がどうしてもぼやけてしまう。

自己犠牲、自己承認、夢を持つこと、女が生きるということ、人から求められている自分、自分が自分たるための自分…全て詰め込みに詰め込んでいる。

夢オチだけど夢オチじゃなかったという謎展開(読んでいて伝わらないだろう、観ていても伝わらなかったので許してほしい)も、必要だったかどうかいまいちよく分からない。そのシーン前後で描いていることが変化しているとは思えなかったからだ。

 

ただ、観客一人一人が、登場人物の誰かの一部分に、とあるシーンの一部分に、どこか共感できるところを見つけられれば面白くみられるのかもしれない。

このごちゃごちゃさが好みにぶっささる人がいることも理解している。し、このような整理されていないごった煮感こそ、小劇場ではよく映えるであろう。

しかし単純に、私の好みではなかった。

くによしさんの戯曲にはある種の魅力を感じているので、また別の作品を見るきっかけがあれば行きたいと思う。

 

 

 

 

 

2021.6.30.