徒然

映画や演劇をみるひと

燦々 てがみ座

『燦々』

作・長田育恵

演出・扇田拓也

出演・前田亜季、酒向芳、川口覚、石村みか、速水映人、ほか

 

あらすじ

鬼才の絵師・葛飾北斎を父に持つ娘・お栄。

彼女本人も、葛飾北斎のもとで、他の男弟子たちと共に幼いころから絵を描いていた。

上手いが、それだけだと言われてしまう自分の絵。

父に負けない本物の絵師となる覚悟を決めたお栄は、自分が女であるという事実や、偉大な父に対する劣等感を受け入れ、葛藤しながら、「自分だけの色、自分だけの絵」を描くために奮闘する…。

 

 

 

てがみ座を実は一度も観たことがなかったので、機会を見つけて観劇。

調べてみると、てがみ座では一番というほどエンタメ性の強い演目の再演だったらしい。

なるほど、北斎の娘であるお栄が、自分が女であるということや父に対する劣等感と戦いながら、絵師としての自分の進む道を見つけていく物語は、単純明快で分かりやすく、スピード感抜群で熱量に富んでおり、とても見応えがあった。

 演出も鮮やかで、火事を眺めているシーンのドラマチックさや、現実と夢の間を描いたような夜のシーンは空間としてとても美しかったし、要所要所で使われる、大きな薄い布(か、紙か。和紙のような強い紙かもしれない。)も舞台装置としていい味を出していた。

そのスピード感と物語性、舞台の派手さに呑まれたい観客にとっては、とても面白く刺激的かつ感動的な作品であっただろう。

ただ、一緒に物語の世界に連れていって欲しい観客にとっては、置いてけぼり感の否めない作品だったように思う。

 

まずは脚本だ。

シーンは一つずつ見れば面白い。しかしそれらがうまく作用しあって物語が進んでいくようには見えなかった。ぶちっぶちっと切れている感じ…。

特にお栄と結婚相手との線の空中分解加減といったら失笑ものだったし、また、善次郎との線も、後出し的に唐突にいろんな要素が小出しされていって、全くついて行くことができなかった。

①お栄⇔北斎、②お栄⇔善次郎、③お栄の成長という三つの筋それぞれに対して、描きたい独立したエピソードが多々あり、それを描きたいままに描いてしまったために、三つの筋が絡み合って一つの物語を作り上げているという太さが無くなっていたのではないだろうか。

 

フランス古典演劇の基本的劇作法に、”三統一”という考え方がある。

これは、ひとつの演劇作品内では、その日のうちに(時の統一)・同じ場所で(場所の統一)・発端から結末まで同一事項について(筋の統一)描くべきだとした理論である。

私個人の意見としては、それは演劇の可能性を狭めすぎると思うので完全に同意はできないが、この手法が一番シンプルで観客に伝わりやすいであろうことは確かである。

描きたいエピソードがたくさんあることは素敵なことである。ただ、三統一ほどのシンプルさとは言わないまでも、余計なものを見極めそぎ落とすことは、創作において確実に必要なことなのだと感じた。

 

また、これは演出の問題が大きいだろうが、

前のシーンで影響を受けた主人公が、次のシーンで少し成長している、という様を脚本は描いているはずなのに、

役者の発する台詞で前とは変わった事・成長していることを説明しているだけで、そこに実際の役の内面の変化をとらえることができなかった。

だから観客としては、「あ、そうなんだ。あそこで影響受けたからこのシーンでこう変わったのね。あなたが言うんだったらそういうことにしておきましょう。」という気持ちになって、冷める。”こういう風に見てくれよな”と言われているようで、押しつけがましく感じる。

そのセリフが観客の実感の補填のために使われているならまだわかるが、そのセリフによって観客が実感しなければならない構造になっていたので、置いてけぼりを食らったような気がした。 感情説明的な台詞を聞いて「あ、そうなんだ。」と思いたくない。「あ、”やっぱり”そうなんだ。」と思いたいのだ…。

舞台は美しく、派手で、見応えがあったが、肝心な人間の心模様が浮かび上がってきていなかった。演出の視点が大味だと感じた。

 

ただ、前述したとおり、物語自体は分かりやすいし、スピード感と熱量にあふれた、見応えのある舞台であった。明日も頑張ろう、と勇気を与えてくれるような作品だ。

演劇を初めて見る人などにとってはとても刺激的な初体験となるであろう。

そういう演目は確実に必要だし、このような演目で初めての人に向けたセールスをどんどんしてくださると、演劇人口が少しずつ増えていくのではないかと思う。

 

 

 

2020.2